入院中に思ったこと

ようやく今日、退院することができた。立春までには、という目標はどうにかクリアしたが、もうしばらくは自宅で静養である。
それはさておき、入院中に痛感したことがある。私に限ったことかもしれないが、環境の変化がないと、句を作ることは非常に難しいということだ。
手術後数日はさすがに体調的に厳しかったが、小康状態になってからはけっこう暇があって、時間があれば句のひとつも練ろうといろいろ考えていた。だが、同じ病棟の一定の場所以外の行動ができない状態では、風景の変化がほとんど無い。しかも、空調で室温もほぼ一定に保たれているので、体感的な変化も少ない。簡単に言ってしまえば、季節を感じる要素が全く無いのだ。有季の句を作る上で、これは最悪の環境である。歳時記を持ってきても季節感が空回りするばかりで、全く手応えがない。何とかひねり出してみても、どこか空々しい句になってしまう。まったく、これには弱ってしまった。
逆に、季節感がはっきりと感じられる状態になると、作句は進む。今月の23日に横浜で雪が降ったが、あの時は病室の窓からもはっきり雪景色が見えていたので、否応なく季節を感じることができた。そうすると、雪をネタにひとつふたつとすんなり句ができる。我ながら現金なものだと思ったが、俳句を作る上で季節感を実感するということは、非常に大事なことなのだと痛感した次第である。
まあ、裏を返してしまえば、季節感を展開するだけの想像力の無さと、無季の句を作るだけの才覚の無さを証明しているだけなのだが……。
ともあれ、晩年病床にありながらも作句を続けた正岡子規の偉大さを実感した、入院期間であった。