季語は厳粛であるべきです

発信箱:夏と秋の原爆忌=広岩近広

夏と秋に、それぞれ「原爆忌」という季語があるという話題。もちろん、前者が広島で後者が長崎なのは言うまでもないのだが、たしかにややこしいのも事実。ちなみに、手元にある角川の文庫版「俳句歳時記 第4版」では、夏と秋にそれぞれ「原爆忌」が載っている。
原爆というと季感として夏の印象があるという指摘は一理あるので、記事で宮坂静生氏が言うように「広島忌」「長崎忌」と言い分けた方がいいのかもしれない。
記事ではいっそのこと「原爆忌」を夏の季語として統一してはどうかという提案がなされているが、宮坂氏はきっぱり結論づけた。
「季語は厳粛であるべきです」
うん、それが俳人ってもんだよな(笑)
ただ、俳句をやっている者の端くれとしてこういうことを言うのも何だが、立秋を境に夏と秋を分けるというのは理屈ではわかるものの体感的にはちとつらい。今年の立秋はことのほか見事な夏空が広がって、さてどこに秋を見い出せばいいのやらとかなり悩んでしまった。
しょうがないので、たまたま出勤中に出くわしてしまった場面でこんな句をひねってみたり。

横たわる猫の骸や今朝の秋  独楽

……びみょー。
ただ、今日などは8月らしからぬ涼しい一日で、なるほど「秋来る」という風情ではあった。つくつく法師が鳴くのも初めて聞いたし、季節は確実に進行しているらしい。

誰が魂のつくつく法師鳴き始む  独楽

なお、ブタクサの花粉症持ちである相方の鼻にも一足早く秋が来たらしく、アレルギー止めの点鼻薬を苦しそうに打っていた。こういう季節感は気の毒なものである。