基本を忘れずに

先週の木曜句会に出てから、どうも調子がよくない。
原因が何かは、だいたいわかっている。
無理に詩的な表現や受けを狙おうとして、失敗しているのだ。例えば、こんな感じ。

陶枕や覚めやらぬ夢のひと滴

自分で言うのも何だが、ベタベタである。「夢のひと滴」って、この無理やりなポエムっぷりはいったい何なのだと自ら小一時間問い詰めてしまいたくなる。
基本は、事物を描写する写生にある。これを忘れてはいけない。観念や思い込みといったものは排除しなければならない。ドライに描いてこそ、俳句の切れ味が生まれる。
で、なおかつ答えを自分から言ってはいけない。状況だけを提示して、あとは読み手の想像に任せることが大事である。
どうも、背伸びをしすぎて俳句の基本を忘れてしまっているようだ。いま一度、基本に立ち返らねばなるまい。自分はまだ初心の身だということを肝に銘じなければならない。気をつけねば。

木曜句会

葉月さんのお誘いを受けて、「豆の木」の木曜句会に参加してきた。
正直なところ、「豆の木」なんて自分のレベルでは到底届かないところだと思っていたので、内心戦々恐々であった。
今回のお題は「苔の花」「脚」「袋」「梅雨」「囲碁」「漢字」「タオル」。
そして、一週間前から七転八倒して作ったのが以下である。結果もあわせて書いておく(ちなみに参加者は私を含めて8名、選句数は自由である)。

田舎には田舎のルール苔の花  0点
釣堀の脚本どおりとなりにけり  2点
空蝉や袋小路と知りつつも  1点
梅雨闇や新着メールはありません  0点
囲碁教室の宇宙戦争夏休み  1点
薔薇といふ漢字の如き二輪かな  3点(特1並1)
バスタオル巻いてビールが冷えてない  0点

何というか、無理して背伸びしたところはきっちりスルーされる結果となった。お恥ずかしい次第である。他の句も、パラパラと点を頂いた程度。まあ、今の自分の実力としてはこんなところであろう。もうちょっと地に足の付いた句にしておけばもう少し結果は違ったかもしれないが……まあ、それは今さらである。
最大の収穫は、薔薇の句で代表の特選を頂いたことだろうか。もっとも、これもビギナーズ・ラックの類だろうから、あまりぬか喜びすべきではあるまい。その薔薇の句にしても、「二輪」は説明的だとの指摘を受けた。この部分は若干色気を出して書き直した部分だったので、しっかり見透かされた格好である。
褒めるべきところは褒め、指摘すべきは指摘する。そういうやり取りが高度なレベルで行われているのを見聞きするのは、非常にスリリングで興味深いものがあった。私もいくつか感想を述べさせてもらったが、はたしてついていけてたのかどうか……。
ともあれ、とても勉強になる句会だった。許されるのであれば、ぜひ次回以降も参加したいと思っている。

第36回熱刀句乱舞

昨日は「蛮の会」の句会である「熱刀句乱舞」に参加してきた。3月以来だから、3ヶ月ぶりか。さて、先週現俳協の句会で散々な目にあった分を取り戻せるかどうか。
まずは、投句と頂いた点数の結果から。

初防衛の3カウント虹立ちぬ  2点
相対性理論玉砕昼寝する  0点
罪深き冷し中華のマヨネーズ  6点
守るべき人傍らに遠花火  4点

初防衛の句、虹からジャーマンスープレックスを連想してもらいたかったのだが、さすがに無理があった様子。プロレスを俳句にするとどうしてもマニアックな知識が必要になってしまうので、そこをいかに回避するかが難しい。「プロレス俳句」への道は険しい。
相対性理論の句、1、2点程度は入るかと思ったのだが、空振り。むう。
冷し中華の句、狙いどおりにマヨネーズの功罪を問う議論になって、ひそかに満足。これこそまさにマヨネーズの罪深さ(笑)。ただ、「物を詠んだだけで動きがない」という指摘もあって、それはたしかにそのとおりかもしれない。実はこの句には原型があって、

発端は冷し中華のマヨネーズ

というものであった。どちらにしようかと悩んだのだが、原型だと散文めいてしまうように思ったので直した次第。さて、どっちがよかったのやら。
遠花火の句、点数的には低いのだが、代表の特選を頂けたのは今回最大の収穫。「守る」という兼題からするりと出来た句だったので、悪くない結果が得られたのは気持ちがいい。ただ、これにも「『傍ら』という近景と『遠花火』という遠景が連続するのはよろしくないのでは」という指摘をもらい、なるほどと思った次第。それに従うと

傍らに守るべき人遠花火

となるのだが……ううむ、どうだろう。私としては「傍らに」を強調したいところなのだが、これだと「人」が強調されてしまう気がする。俳句としての形はこの方がいいんだろうけど、心情的には承服しがたいところがある。
と、以上が投句の結果である。


投句の結果も大事だが、選句も大事。今回の選句は……そんなにおかしな句は採っていないとは思うのだが、あいかわらず少数派の意見であった。まだ選句眼が弱いのか、あるいは私のセンスが人とズレているのか。まあ、常に多数派に属さねばならないという法もないのだが、いずれにせよ少々不安ではある。もっとたくさんの句を読んで勉強せねばなるまい。


最後に、今回の句会で披露された、最も驚くべき作品を紹介しておこう。

事後述べた反省船場食べ残し  田中耕司

言うまでもなく、世間を騒がせた船場吉兆を詠んだ句。これだけでも句として充分成立しているのだが、恐るべきことにこれは回文になっているのである。

じごのべたはんせいせんばたべのこし (濁点ははずして読む)

正直、披講の場でタネ明かしされるまで全く気がつかなかった。それだけ完璧に意味の通る回文なのである。いやもう驚いたのなんの。こういうものすごいことができる人がいるのだから、全くもって俳句は奥が深い。

いきなり仮想吟行

毎月第2土曜日は、現俳協の土曜句会の日。
というわけで、3ヶ月ぶりに現俳協事務局を訪ねたのだが……何だか、妙に人が少ない。
どうも様子がおかしいので、顔見知りのKさんに尋ねてみたところ。
「みんな、食事してますよ。今日は小石川植物園に吟行に行ってたから」
は、吟行……?


聞いてないぞ、そんなこと。


そりゃまあ、先月も参加してなかったんだから、知らないのも当たり前ではあるのだが。よりにもよって、思いっきり間抜けなタイミングで来てしまったことは間違いない。
用意してきた句は、当然ながら植物園のことなど全く考慮していない。しかたがないので、植物園の吟行の後に似合うような句をその場で仕立てることにした。一人だけの仮想吟行である。
あからさまな嘘はまずいので、取り急ぎ手元の端末で小石川植物園のサイトにアクセス。今どんな植物が見頃になっているのか調べて、それに合いそうな句をひたすら考える。考える。考える……。
そうこうしているうちに参加者が続々と集まってきた。時間はほとんどない。
さらにまずいことに、最近の私は基礎勉強と称して写生句ばかりを作っていたので、現代俳句らしい句を書く頭がすっかりなくなってしまっていた。もうどうしようもない。時間切れになったので、それっぽい句をどうにか体裁だけ整えて、提出した。
この間、約1時間。すでに頭はオーバーヒート状態である。


そして、選句に入る。これがまた、きつかった。
ただでさえ吟行の句というのは完成度があまり高くないものであるが、さらにもってきて現代俳句的なノリがてんこ盛りである。写生句の頭で読んでいると、クラクラしてくる。いずれはこういう領域も渡り歩かねばならなくなるのだろうけど、最悪のタイミングで一人仮想吟行を強行してへろへろになっている身には、精神的ダメージが大きすぎた。
こんな状態でまともな選句ができるわけもなく、特選をつけた句も披講の途中で見返してみたら「なんじゃこりゃ」というものだったりして、絶不調。
自分の提出句も、その場ででっち上げただけあってろくに採ってはもらえず、こちらも絶不調。句会としては最悪に近い結果だった。
唯一救いだったのは、講師のM先生に1句だけ採ってもらえたことだろうか。

リベンジを誓ふ今年の額の花   独楽

「今年の」は言い過ぎだけど、という評であった。たしかにそうかもしれない。
もっとも、作った当人が言うのも何だが、こんなに観念的な句はぶっちゃけ駄句の部類だと思う。もっとしっかり観察した上でびしっと切れ味よく写生を決めたいところなのだが……。


とまあ、そういうわけで。今日の句会は(自分にとって)実に気まずく、情けないものだった。
勉強のためにも、来月以降も参加していければいいのだが……正直、行く気が萎えている。というか、もしかしたら私は現代俳句よりも伝統俳句の方が性に合ってるのではなかろうか、とか思っていたりするので、今後現俳協の句会に参加していくのが良いことなのかどうか、図りかねているところもある。


ともあれ、今日はもう疲れた。考えるのは明日以降にしよう。

中曽根康弘氏の俳句に突っ込みを入れる

中曽根元首相:卒寿、2冊目句集 「埋火は赫く冴えたるままにして」

 中曽根康弘元首相は27日、90歳の誕生日に合わせ、俳句集「中曽根康弘句集2008」を出版し、東京都内で発表会見を開いた。旧制静岡高校在学中から最近までの461句を収録。首相在任中の1985年に1作目を出版して以来という。

とのこと。ふーん。
政治家で俳句やってる人というのはそれほど珍しくないそうだし、おそらく自費出版だろうから句集を出すこと自体はそれほど変わったことではないような気がする。
問題は、この続きの部分である。

 お気に入りの句は「埋火(うもれび)は赫(あか)く冴(さ)えたるままにして」。火鉢の中の炭火が翌朝になっても燃えている情景を詠んだといい、中曽根氏は「90歳にしてなお壮ということでしょうか」。

俳句始めて半年ちょっとの若造が生意気を言わせてもらうが、お気に入りにしちゃ、ちょっとつまらない句ではないかと。
まず最初に突っ込んでおくと、これは中曽根氏の間違いか記事を書いた記者の間違いかわからないが、「うもれび」ではなくて「うずみび」ではないのか。俳句歴が長い(のであろう)中曽根氏が季語を間違うとは思いがたいが、ちょっと気になるところである。
それはさておき、句の内容について。「赫く冴えたる」と見たところまではまだいいと思うのだが、言い切らずに「ままにして」としたところが落ち着かない。余韻を残そうとしたのかもしれないが、読みようによっては埋み火をそのまま放置するかのような印象を受ける。これではせっかくの発見が流れ去ってしまう(そもそも「発見」というほどのものか、という突っ込みもあるかと思うが、ここは譲っておくことにする)。
下五をこのままの形にするのであれば、上五を「埋火を」とすべきだろう。

埋火を赫く冴えたるままにして

これだと、「ままにして」に主体性が出るので、老政治家の情熱を表した心象句としての雰囲気が出てくる。「90歳にしてなお壮」というのなら、この方がいいと思う。
それでも、一物仕立ての句としてはやはりインパクトに欠けるし、下五の煮え切らなさはいかんともしがたいので、もうちょっとどうにかした方がいいのではないかと思うのだが、どうだろう。


さあ、生意気言ったぞー。
これで的はずれだったら、かなり恥ずかしいぞー(笑)。
つーか、ご本人にこの記事見られたら、怖いぞー(汗)。

基礎を固める

実は、1週間ばかり入院をしていた。
軽い腸閉塞ということで、入院当初はかなり症状がつらかったのだが、軽快するにつれて本を読むとかできるくらいの余裕もできるようになった。
で、その病床で読んでいたのがこの本。

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

3月前に買った本だったのだが、仕事が忙しかったりとなかなな読む機会がなかったので、これ幸いと手をつけてみた次第。
ひととおり読んでみて思ったのは、「やはり基本は客観写生なのか」ということ。
私がとても好きな句のひとつに、


哭く人を笑ふ遺影や夜の長く  辻桃子


というのがある。
淡々と、そして鋭く切り取られた情景の断面の鮮やかなこと。この切れ味の素晴らしさには、いつもほれぼれする。
この句の作者が、まさにこの本の作者である。その人が「客観写生は大事」だという。掲句はまさに客観写生の威力を示しているだけに、その説得力は抜群のものがあった。
私は現代俳句方面から俳句の世界に足を踏み入れたのだが、辻桃子さんは現代俳句を経て現在の伝統俳句に至ったという。やはり行き着く先はそこになるのだろうかと、いろいろ考えさせられた。


しかし、客観写生とはいっても見たまんまを描くだけでは凡庸な句になってしまう。
問題は、客観写生を踏まえた上でいかに詩なり諧謔なりに持って行くか、というところにありそうだ。そこまで行って、初めて「佳作どまり」を脱することができるのだろう。


というわけで、現在の私は客観写生の練習中である。


故郷より母の手紙と柏餅
電柱に寄り添う烏若葉雨
蜜豆やExcelの極意口伝え


……とりあえず、こんな感じで。
まだまだ出来は悪いが、多作多捨ということでがんばっていきたい。

春を惜しむ

かれこれ約2ヶ月ぶりの更新だ。
3月、4月と仕事があまりにも忙しく、とても俳句にまで頭が回らなかった。
仕事も一段落し、連休に入ったこともあって、ようやっと気持ちに余裕が出てきたので、久しぶりにこちらに記事を書いている次第。


気がつけば明日はもう立夏である。夏の歳時記に持ち替えねばならない。
4月は「蛮」の吟行にも現俳協の句会にも出られなかったので、春の句を人前で披露する機会が全くなかった。
(欠席投句という手もあったのだが、推敲する余裕もなく断念した経緯がある)
というわけで、行く春を惜しみつつ、ひそかに書きためていた春の句をここで大放出してしまおうと思う。
あいかわらずのお目汚しだが、ご容赦頂きたい。


きさらぎの安定剤が零れ落つ
濁る目で受け入れてゐる目刺かな
梅が枝に紆余曲折のありにけり
嫌われてなほ恋猫の空回り
人知れず春の滴がまたひとつ
暖かし太陽系の片隅で
春昼や子らが見せ合ふ玉子焼
口元に平和垂らして朝寝かな
萌え出づる春に取り残されてゐる
抱く妻が桜哀しと噎ぶ夜
万愚節だから許してほしい嘘
鼻毛切り白髪混じりて長閑なり
通ひ路や今日はかはづが死せる夜
躑躅より淋しき通勤電車かな
終電の去りしホームや暮の春