「十二音技法」について

ネットをふらふら回っていたら、「週刊俳句」というウェブマガジンで「十二音技法」なるものについて議論している記事を発見した。
「十二音技法」が俳句を滅ぼす
……正直、読んでいて冷や汗の出る思いだった。初心者向けの本を数冊読んだだけの私は、たしかに時々この「十二音技法」を使うことがあったからだ。
ただ、こういう記事を読んだ後でこういうことを言うのはずるいかもしれないが、先に十二音が出来てから季語を探すという作業に、私はうっすらと罪悪感めいたものを感じていた。何だか自分の都合で勝手に季節を変えてしまうかのようで、卑怯なことをしているんじゃないかという後ろめたさがあったのである。この記事を読んで、その後ろめたさは決して自分だけの問題じゃなかったということがわかったので、それはある意味救いになったような気がする。でも、安易な作句に走らないように、後ろめたい気持ちはこれからも忘れないようにしたい。
一方、十二音かどうかはさておき、最後に季語を選ぶという手法は悪いことばかりじゃない、という思いもある。
先日書いたように、私は季語を「イメージを共有・展開するための背景」と考えている。五感を通して何か感動することがあって、それがまず季語を伴わずに形になってしまうことは往々にしてある。ならば、その感動を活かすべく、イメージを共有・展開させるためにふさわしい背景(=季語)を選ぶのは、句が描く世界を構成する上で有効な方法なのではないだろうか。ただ、そこで季語が「近い」とか「遠い」とか言い始めると、途端にステレオタイプな嫌らしい技巧におぼれてしまうので、ここでいかに適切な季語を選ぶかはかなり神経を使う作業だと思われる。まあ、あまりベタに近い季語もどうかとは思うが、自分の中の感動とイメージが連動する季語であれば、それが近かろうが遠かろうがあまり関係のないことなのではあるまいか。で、どうやっても適当な季語が見つからないようなら、無理をせず無季で詠みきってしまう。季語にこだわらない、そういう割り切りも必要だと思う。
結局のところ、最後に季語を選ぶという手法は、自分の中の感動といかに向き合い、イメージを膨らませていくか、というセンスにかかっているのだろう。それができれば良し、できなけれ5W1Hゲームのように、ただの言葉遊びにまで堕ちてしまう。ある意味、その人が詩的になれるかどうかをあぶり出すテクニックと言えるのかもしれない。
……と、えらそうなことを言っている私は、はたして詩的であるのかどうか。まあ、詩的だからどうなんだ偉いのか、って話もあるので、そろそろ時間も時間だし、この辺で暗転させておくことにしよう。


[23:00 追記]
というわけで、誕生日を記念して一句。

雪国の母訪ね来し誕生日   独楽

無季になってしまったが、「雪国」という辺りで少し季節を感じてもらえれば。山の方では吹雪だったとのこと。