プログラミング的俳句観

生業がIT関係なせいか、句を作ったり鑑賞したりするときについ「そっち」方面の感覚で考えてしまうことがある。というか、俳句はある意味プログラムに似ていると思うのは私だけだろうか。

ショートコーディング

最近プログラマの趣味的な領域でたまに見かけるのが、「ショートコーディング」という言葉。これは、ある特定の動作をさせるためのプログラムをいかに短く書くか、というマニアックな「技術」である。その生成物は、一見するとほとんど理解不能なのだが、そこには多様な動作を指示するためのコードが目いっぱい詰め込まれている。そして、それはちゃんと目的の動作を果たす。まるで手品のような職人芸である。
俳句というのは、ある意味このショートコーディングに似ているのではないだろうか。詳しく描写しようと思えばいくらでもできる情景を、省略に省略を重ねて十七音に圧縮する。そこに使われる文字は、目的を達するためにあらゆる考察が加えられており、1文字たりと無意味な要素はない。この感覚は、まさにショートコーディングと共通している。

俳句という名のプログラム

ただ、俳句という名のプログラムの面白くも残酷なところは、それが作者の目的どおりに動作するか全く保証がないところだろう。その句を鑑賞した人の数だけ演算結果は存在する。作者の意図した効果が全く現れなかったりすることもあれば、作者が思った以上の結果をもたらすこともある。いかに思惑どおりの演算結果を与えるかは、作者のコーディング能力にかかっているのである。
ゆえに、推敲を重ねる。無用な表現や意味の重複を省略し、コードを圧縮する。言葉の言い回しを変え、配置を変え、語調を整える。ひらがなか漢字か、旧かなか現代かなか、助詞のひとつまでをも選びに選んで、適切なコンパイルが行われるように細心の注意を払ってぎりぎりのコーディングをしていく。
根がプログラマである私にとっては、この作業が、実に楽しいのだ。まさに俳句とは、プログラミングである。
もちろん、うまくコーディングできないときはブチ切れたくなるくらいイライラする。だが、その苦しみを経て「これだ」という形の句ができたときの満足感は、得も言われぬものがある。まさにこれは、デバッグに成功した瞬間のプログラマの快感に等しい。
テクニックや経験値も必要なのだろうが、何より感性を試されるプログラミング。正解のない、それゆえに正解に近づけるためにぎりぎりの攻防を繰り広げるショートコーディング。それが、私にとっての俳句なのかもしれない。

誰にでも共感してもらえる句を

だからこそ、私は平易な句を詠みたい。作者の経歴や地域の歴史等々といった特殊なライブラリをリンクしなければコンパイルできないようなプログラムは組みたくないのだ。誰もがそんなライブラリを持っているとは限らない。ならば、素のままの表現で狙いどおりの演算結果を出せるようにコーディングしておけば、誰にでもその句を期待どおりの形で味わってもらえるに違いない。ショートコーディングはマニアックな世界だが、マニアックなマシンにしか解釈できないプログラムを尊ぶばかりでは、閉鎖した世界の内輪受けにしかならないのではあるまいか。


……といったところで、そろそろ眠くなってきてしまった。この話はまたいずれ。