「季語の斡旋」って、なに?

俳句の入門書を読んでいると、「季が動く」というのはよろしくない、と書いてある。
要するに、季語とそれ以外の部分との関連性が薄く、季語が別のものに変わってもいくらでも意味が通る状態のことを「季が動いている」というらしい。
で、俳句関係のサイトをいろいろ見て回ると時折言及してあるのが、「季語の斡旋」という言葉。斡旋、というと何やら後ろめたい取引めいたものを感じてしまうのが物知らずの印象なのだが(笑)、これは結局のところ「季が動く」かどうかということについて述べる際の言い回しと考えてよさそうである。「季語の斡旋が巧み」とかそういう表現をよく目にするので、多分そういうことなのだろう。
さて、ここで問題がある。季語の斡旋の良し悪しというのは、いったいどういう基準で判断されているのだろうか。
私のような初心者から見ると「これは季が動いてるんじゃないのか」と思われるような句でも、選者の評を見ると「季語の斡旋が素晴らしい」とか書いてあって、首を傾げてしまうことが多々ある。これは、私の目が節穴だからと考えていいのだろうか。それとも、何らかの根拠理由があっての判断なのか、あるいは(失礼ながら)選者評者の発想の飛躍の結果なのだろうか。
もし、それが私の無能ゆえということなら、何も反論はできない。句を見る目を養うしかないのだろう。
だが、それでいいのだろうか、とも思う。それを目にした人の複雑な想像力に強く依存するような句は、所詮「楽屋落ち」に過ぎないのではないだろうか、と。
試しに、手元にある歳時記からひとつ引用してみる。
蛍光灯唄ふごと点き冬浅し  藤田湘子 
さて、この句の「冬浅し」にはどういう必然性があるのだろう。私には「季が動いている」ようにしか思えないのだが、はたして「季語の斡旋」はどのように成功しているのだろうか。どなたか納得のいくように説明してはくれまいか。できれば、誰もがすんなり理解できるような解釈を望みたい。