季語の効用

とうとう俳句雑誌なるものを買ってしまった。角川俳句12月号。特集の「文語文法、基礎の基礎」というのが読みたくて。相方に見せたら「本気?」と半分呆れられてしまった。いいじゃないか、四十前で俳句にはまっても。
閑話休題
先日の「季語の斡旋」のところからずっと季語の役割についてずっと考えていたのだが、角川俳句の「採る句採らぬ句、選句の基準」という記事にちょうど季語の事が書かれていたので、いろいろ参考にさせてもらった。

プログラミング的俳句観における季語

思うに、季語とは作者、読者双方においてある一定のイメージを共有するための「背景」のようなものなのではなかろうか。プログラミング用語で言えば、作句においてはフレームワーク、鑑賞においてはランタイムライブラリのようなものと言えようか。その言葉があることによって、句の中に一定のイメージが構築され、作句の際にはそれを足がかりに描写を重ね、鑑賞の際にはやはりそこを足がかりに想像を巡らせる。そんなものなのではないかと今は考えている。
フレームワークにしろランタイムライブラリにしろ、利用することでプログラムはよりシンプルに仕上がる。季語が持つイメージを最大限に活用することは、俳句のショートコーディングをする上でも合理的な戦略だと言えよう。
で、問題はその季語と一緒にどんなものを描くか、である。似たものを描けばイメージの中に埋没するばかりだし、突拍子もないものを描いても浮いてしまう(それも時にはテクニックになるのだろうが)。ゆえに、季語からつかず離れずの距離にあるものを配置すれば、世界に適度な立体感が出る、ということになるらしい。あくまで理屈上では。
ただ、この戦略だと取り合わせの句になりやすい。一物仕立ての場合はさらにイメージを具象化するとか、そういう方向の戦略になるのだろうか。私の場合、一物仕立てになるときは直観でストンと詠んでしまうので、この辺はまだ研究不足である。

写真撮影的俳句観

季語=「背景」という認識で句を作ると、その背景に何かを描き加えた上で、その情景のどこに焦点を合わせるか、という映像的なイメージで作句をすることになる。例えるなら、カメラで写真を撮る時に被写界深度を浅くしてボケを作り、ピントを合わせた被写体を際立たせるといったテクニックに近い。しかも、適当にピントを合わせればいいというものではなくて、自分の心情を託せるものに注目しなければならない。まるで写真家か映像作家の気分である。
背景を据えてから情景を描くか、描きたい物を決めてから背景を選ぶか、その辺の手順は多分その時々によって違うだろうが、最後にピントを合わせるところは同じこと。ここでブレたりビンボケだったりしたら、いい写真にはならない。被写体は何なのか、それにどんな思いを託しているのかをきっちり描き出す必要がある。
自分が五感で得たものに何を感じたのか、それを何に託して描写するか。これはまさに内観とか内省とかの領域であろう。緻密な自己分析かひらめきか、あるいはその両方か、ともかく容易ではない作業である。だが、これがうまくはまって、フレームばっちりピントくっきり手ブレ無し、という句ができたら、それはきっと「いい句」になるんじゃないか、という気がしている。今のところ。


そろそろ寝なければならないので、今日はこの辺で。