鑑賞するための能力

まず、先日書いた「季が動く」話の続き。
>>蛍光灯唄ふごと点き冬浅し  藤田湘子<<
という句における季語の斡旋について説明してほしいと書いたのだが、これは句をしっかり鑑賞することで自己解決できてしまった。
蛍光灯が、唄うようなリズムで点滅してから点く。おそらく、オフィスの天井にあるような蛍光灯の集団ではなく、1本の蛍光灯をひもを引っ張ってつけるタイプのものだろう。音もなく瞬いて光る様は、どことなく寂しさを感じさせる。静けさと蛍光灯の白さが冬への連想に繋がっていくが、「唄ふごと」という言葉の明るさが厳冬とは違う雰囲気を与えている。だから「冬浅し」で正しいのだろう。以上。
……解釈、間違ってないかな?(汗)

俳句における「圧縮」と「展開」

句の鑑賞の話ついでに、最近つらつら考えていたことを書いてみる。
生業がIT系なので、どうしてもそっちの用語で俳句について考えてしまうことが多いというのは前にも書いたとおり。で、最近感じているのは、作句することと鑑賞することはデータ圧縮と展開(あるいは「解凍」)の関係に似ているのではないか、ということ。
データ圧縮の基本は、データの冗長な部分をより効率的な表現で置き換えること。0が10個ならんでいるデータがあったら、代わりに「0が10個」と書けば文字数は半分に圧縮できる。そんな感じである。
作句における「省略」というのは、表現においてまさにこのデータ圧縮と同じことをしていると考えることができる。より短い表現で多くのことを表すために、冗長になりがちな説明部分をあえて省略していく。一方、「飛躍」とか「衝撃」といった技法も、連続するイメージの冗長性を省略しているという意味において、やはりデータ圧縮と同じである。
さて、そんなこんなであたかもZIPファイルのように圧縮されて出来上がった句は、字面のままでは意味が通らない場合が多い。そこで、作句のプロセスで省略された部分を読み手が補い、イメージを再構成するという作業が必要になる。これが圧縮に対する「展開」である。さて、データであれば数学的な規則によって元のデータを正確に復元することができるが、俳句ではデータの補完が読み手の想像力に任されているので、読み手の展開力次第では展開に失敗する場合もあり得る。要するに、圧縮されたファイルを展開するのに解凍ツールが必要であるように、句を展開(鑑賞)するにも相応の能力が必要になる場合もあるということだ。
冒頭に挙げた句について、数日前に記事を書いた時点では私はあの句を展開することができなかった。だからこそ、季語の斡旋について疑問を抱いたのである。今になってようやく圧縮されたイメージを展開することができたので疑問は解けたのだが、それはおそらく俳句についての学習が進んだからであろう。
つまり、俳句は、時にそれを鑑賞する人に専門的な知識や能力を要求する文学だということである。はたして、それでいいのだろうか。


……いかん、眠くなってきた。今日のところはこれまで。続きは後日。