読み手に労力を求める文学

俳句という文学は時として読み手に専門的な知識や読解能力を要求する、というところまで書いた。
データ圧縮の例で言えば、高度に圧縮されたデータを展開するためにはクライアント側にも相応のマシンパワーや展開用の専門ツールが必要になる、ということになる。
これは、ある意味とても傲慢な文学だと言えないだろうか。何しろ、読み手に理解するための労力を求めるのである。しかも十七音という高圧縮状態であるだけに、展開するためには他の定型詩散文詩よりも多大な労力が必要になる。実に難儀な文学である。
もちろん、全ての俳句がそんなに難解な代物であるわけではない。一読してすっと意味が通る句だってもちろんある。だが、俳句を学び始めてまだひと月もたっていない立場から言わせてもらうと、現在著名とされる俳人の方々が詠まれる句は、はっきり言ってわかりにくい。「それはお前が勉強不足だからだ」と言われれば一言もないが、それでいいのだろうか。読み手が勉強しなければ理解できない文学とは、何であろう。それはもはや文学ではなく、学術書の領域ではあるまいか。
俳句は「座の文学」と言われる。句会や結社に参加し、主宰や上級者の指導を受けて、作句力を上達させていくという。なるほど、それはいいとしよう。だが、この制度はある意味、いやほとんど大学の研究制度と同じように私には思える。教授の下につき、研究を重ねディスカッションを行い指導を受け、時には論文を書いて発表する。非常によく似ている。そう考えると、上達した人が詠んだ句が学術書然としてくるのは、ある意味当然の成り行きなのかもしれない。いわんや教授、もとい主宰をやである。
だんだん話が偉そうになってきたのでこの辺で撤退しておくが、要するに言いたかったことは「あんまりややこしい表現はしない方がいいんじゃないのかな?」ということである。まあ、ぶっちゃけて言えば、ややこしい表現ができない者のひがみだったりもする(笑)。だが、妙にひねったテクニカルな句よりも、それを読んだ人に直截に意味が通る句の方が、結局はより親しまれるのではないのだろうかという意識は割と強く持っている。単純な句がいいというわけではないが、平明な表現でも工夫次第で深い意味を与えることは可能なはずである。それを目指して、石を彫るようにコツコツと言葉を整えていくのが、作句していく上で個人的には一番楽しい。


……って、こんなこと初心者が偉そうに言うことじゃないよな、きっと。そろそろ身の程を知った方がいいんだろうか。