詠むために読む

俳句という詩は、半分くらい読者の想像力に助けられているのだと思う。
何気なく詠んだ句でも、想像力豊かな読者が都合良く解釈してくれれば名句にもなってしまう。そういう危うさが、俳句にはあるのではなかろうか。
ぶっちゃけた話、全く同じ句を詠んでも無名の人の作であれば切り捨てられ、有名な俳人の作であれば善意に解釈されて褒め称えられる、ということさえ起こりえるような気がする。
もちろん、読者の想像力を喚起する力があるからこそ名句は名句たり得ているのだろうが、逆に読者の読解力と想像力がなければどんな名句も意味不明な言葉の羅列になってしまう可能性がある。あまりにも有名な「古池や蛙飛びこむ水のおと」に感銘を覚えるには、日常レベルを超えた想像力が必要なように。
それを恐れるから、初心の句は説明的になる。読者の想像力を期待しない、信用できないから、理解してもらおうと思うあまり表現がくどくなったり、内容が単純になってしまったりする。要するに、句に込めたものを理解されないことが怖いのだ。
この恐怖を消し去るには、読者がどこまで想像し理解してくれるかを作者自身が把握しなければならない。そのためには、作者が読者としての技量を身につけるしかない。ここまでは想像してもらえる、ここから先は無理、というボーダーを知ることで、詩としての俳句に一歩ずつ踏み込めるようになる。そんな気がしている。つまり、俳句を詠むためには俳句を読めるようにならなければならない、ということだ。
だから、俳句を勉強するためにはがむしゃらに作句するのではなく、まずちゃんとした評のついた句をたくさん読んで、俳句に対する鑑賞力を身につけることが先決なのではないだろうか、と最近思い始めている。
もっと、たくさんの良い句を読まなくては。